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二本松市

実は○○な二本松の歴史トピック10

鎌倉時代に端を発し、室町時代には城下町として栄えていたという深い歴史を持つ二本松市。その歴史に基づいた伝統文化や食文化が多数残るのもこの街の魅力です。今回はそんな二本松の意外と知られていない歴史トピックをピックアップします。

歴史トピック1
実は郡山も昔は二本松だった!?

江戸時代に二本松藩の領主だったのが丹羽家。200年以上に渡ってこの地を治め、二本松の街づくりの礎を築いたこともあり、今でも地元では「にわ様」と親しまれている存在です。当時の二本松藩は石高10万石、江戸城内で諸大名が控える詰所では、8ある家格の中でも上から2番目の「大広間」を務め、地位の高い藩だったことがうかがえます。実際その領地は現在よりもかなり広く、郡山市の安積町や猪苗代湖の一部にまで及んでいたそうです。現在も霞ヶ城の天守跡からは郡山のシンボル、ビッグアイが望めるのだそう。当時に想いを馳せながら絶景を眺めてみれば感動もひとしおのはず!

歴史トピック2
実は二本松の豆まきでは「鬼は外」は禁句!?

もうひとつ「にわ様」にまつわるトピックをご紹介♪二本松では節分の豆まきの時「鬼は外」とは言わずに「おにーそと」というそうです。これは「鬼は外」が「お丹羽、外」と聞こえてしまうから。今でも殿さまに敬意を払う文化が受け継がれているそうです。

歴史トピック3
実は菊人形の始まりはお殿様の趣味だった!?

二本松の秋の風物詩といえば菊人形。その始まりは江戸時代に菊の愛好家が多かったことにあるそうですが、当時は全国各地の殿さまたちの間では菊を育てるのは決して珍しいことではなかったそうです。「菊人形」を飾る文化も全国各地にあったといいますが、現在でも大規模な祭りが開かれているのは数えるくらい。現在ではお城といえば桜のイメージが強いかもしれませんが、歴史を受け継ぐ菊の祭典も必見です。

歴史トピック4
実は二本松の街には「×」がたくさん残っている!?

市内各地の寺社や霞ヶ城の箕輪門で見ることができる「×」のマーク。実はこれ、バツ印ではなく、二本松藩主であった丹羽家の家紋である「直違紋(すじかいもん)」なんです。郡山市の安積国造神社にも同じ印を見ることからも、郡山が二本松の一部だったことがうかがえます。

歴史トピック5
実は郷土料理のざくざくは元々煮物だった!?

たくさんの具材を文字通りざくざくとしたさいの目切りにして作られる二本松の伝統料理、ざくざく。現在では汁物としてハレの日に欠かせない料理ですが、元々は「ざくざく煮しめ」という煮物がルーツでした。

歴史トピック6
実は提灯祭りは太鼓台の美しさも必見だった!?

菊人形と並ぶ二本松の秋の伝統行事である提灯祭り。残念ながら今年は新型コロナウイルスの影響で中止となりましたが、300個もの提灯で彩られた7台の太鼓台が街を練り歩く様は圧巻の光景です。そんな夜のお祭りの印象が強い提灯祭りですが、太鼓台そのものの装飾も見事!スサノオノミコトや竜など、 町内ごとに異なる彫刻をじっくり見られる2日目日中の本祭りにも来年はぜひ注目してみて!

歴史トピック7
実は二本松市民にしか読めない標語があった!?

「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺」。霞ヶ城の入り口に残る、戒石銘という石碑に刻まれている一文です。「お前の俸禄は民の汗と脂によるものだ。民を虐げるのは簡単だが、天を欺くことはできない」という意味で、上に立つ者は民を大切にする戒めとして丹羽高寛によって建立されたそうです。民衆を大事にする丹羽様の考えが素敵ですよね。市内中心部に住む子どもたちは学校の課外活動で訪れたり作文コンクールで目にしたりすることから、この難しい文を読める子もいるのだとか(実際、二本松出身のarukuスタッフもすらすら暗記していました!)。

歴史トピック8
実は二本松少年隊は長年知られていない存在だった!?

会津の白虎隊と並んで、戊辰戦争の悲劇として知られる二本松少年隊。戦の影響で人が残っておらず、通常なら出陣できない年頃の子どもが実年齢より2歳年上と見なされ出陣し、実際に戦闘に巻き込まれ何人も殉死してしまったそうです。実はこの少年隊が世間に知られるようになったのは、戊辰戦争が終わりだいぶ時間が経った大正時代のこと。当時の少年隊の中で生き延びた人がこの事実を周囲に話したことから周知されたそうです。

歴史トピック9
実は鬼婆伝説は本当に実在した!?

「旅人を泊めた老婆が寝静まった後に出刃包丁で襲う」という有名な安達ケ原の鬼婆伝説。市内にある観世寺には鬼婆の住処であった岩屋や血で染まった出刃包丁を洗った池、鬼婆の墓など伝説にまつわる物が現在でも数多く残されています。また、同様の伝説が埼玉県にも残っているのだそう。ちなみにその地の旧名は「足立ヶ原」。共通点が興味深いですよね。

歴史トピック10
実は高村千恵子は二本松に帰ってきていなかった!?

智恵子抄でおなじみの高村智恵子の出身地でもある二本松。明治時代に進学のために上京したという当時としては先進的な女性だったそうです。その後、実父の死や家業の廃業などで精神を病んでしまうことになりますが、ついに最期まで故郷で療養することは叶わなかったといいます。そうした想いに触れてから智恵子がふるさとを懐かしく思って言った「ほんとの空」である二本松の空を見ると、感じ方が違ってくるかも!?

※この記事はaruku2020年10月号に掲載したものです。

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