テノール歌手・オペラ歌手<前編>|プロフェッショナル夢名鑑

響き渡る声が強く美しく、多くの人を魅了する歌手に話を聞きました。

私は決してエリートではない。“自分はこんなものではない”という思いが、今の声と役割をつくってきた

東京二期会オペラ劇場にて『蝶々夫人』のピンカートン役を演じた時の写真(右が小原さん)。
演出:宮本亞門 衣装:高田賢三

普段のお仕事を教えてください。
小原 今主軸になっているのは、教授を務めている愛知県立芸術大学での指導です。そのほか、東京二期会※の運営やオペラ研修所での指導などもあり、愛知と東京を行ったり来たりの毎日です。大学では学生が1年生から研究室に入るので、所属している20名程の学生のレッスンを毎週していますね。
それ以外にもオペラ演習やクラス授業となる日本歌曲やイタリア歌曲の指導、大学の運営に関わる業務もあるので、教授という重責を感じる毎日です。そのほか、東京・愛知などでのプライベートレッスンや演奏活動も。“教えること”、“歌うこと”、どちらも自分の果たすべき役割だと感じています。
※声楽全般にわたる研究および演奏を通じて、音楽芸術の普及に寄与するとともに、声楽家相互の連携の場となり、会員の福祉厚生を図ることを目的として活動を行っている。

小原さんの演奏活動についても聞かせてください。
小原 オペラは新国立劇場・東京二期会などの舞台を中心に出演しています。近年の主な公演には、『蝶々夫人』のピンカートン役、『フィデリオ』のフロレスタン役などがあります。テノール歌手は声が高いパートなので、オペラでは主人公や、英雄のような役になることが多いですね。もともと芝居にも興味があったので、“歌うことで演じる”オペラはとても楽しい。
コンサートでは、オーケストラと様々な曲で共演しています。毎年1月には「けんしん郡山文化センター」で“新春の第九”という公演があります。郡山市の小・中・高校生と一緒にベートーヴェンの第九などを歌うのですが、私も郡山市出身なのでこういったコンサートに呼んでいただけるのはとても光栄。一緒に歌う子どもたちは、みんなきちんとしていて、頼もしいなと感じます。

小原さんはどのような学生時代を過ごし、いつ歌手を目指したのですか。
小原 私の経歴をみると、エリートだと思うでしょう。でもね、全然違います。勉強ができたわけでも、才能があったわけでもありません。私にあったのはやる気だけ。今でも忘れないのは、中学1年の時の指導教諭に言われた「お前人間のクズだな」という言葉。
学校にあまりなじめず、中学2年からは不登校になり、郡山を離れて施設にいました。ただこの施設で音楽と関わる経験を得たことは、今につながっているかもしれません。中学校は卒業認定試験を受け卒業、高校は通信制に行きました。
その後コンピュータ系の専門学校に行き、プログラミングのソフトウェアの会社で3年弱勤務。この頃は“自分もみんなと同じ道を歩めるんだ”ということを、自分と周囲の人に証明したかったのだと思います。しかしこの頃からだんだんと歌・オペラをやりたいと思うようになりました。
そして退職を決意し、会社を辞めた翌日に親に「東京芸術大学に行く」と電話しました。母親はやっと息子が自立したと思った矢先のことだったので、電話口で泣いていたのを思い出します

音楽大学に入学するために苦労はしましたか。
小原 良い音楽大学は他にもあるのに、私は東京芸術大学に行くと決めたんですよね、その頃は他をよく知らず考えられなくて。準備期間は1年半と決め、共通テストの勉強と、声楽実技、音楽基礎のレッスンに通いました。ピアノも習わなければいけなかったのですが、貯金を逆算すると厳しい。結果、ピアノは独学…知らないとは恐ろしいものです(笑)。
アルバイトをしながら必死で勉強と、歌の発声・発音・表現などを学びました。そしていざ試験。そうそうたる顔ぶれの教授の前で課題曲とオペラアリアを歌いました。今思い返すと「私は歌手になる。絶対に受かるんだ」という気持ちだけで歌ったように思います。でもね、入学することより、入学してからが大変でした。

どのような大学生活を過ごしたのか。これから目指すこと。音楽の道をめざす子どもたちへのメッセージは、後編に続きます。

取材に対応する小原さん。笑顔で生き生きと自身のお仕事と考えについて話す。
普段の声も響くように美しいのが印象的。

『フィデリオ』でフロレスタン役を演じた時のもの。
演出を担当した映画監督の深作健太さんの、“壁”というモチーフと、ベートーヴェンの音楽の融合に感動し、生涯忘れられない経験だという(右が小原さん)。

お名前
小原 啓楼(おはら けいろう)さん
出身
郡山市
最終学歴
東京芸術大学卒業、同大学院修士号及び博士号取得
お休みの日の過ごし方
子どもとの時間を大切にする、掃除

※この記事はaruku2024年4月号に掲載したものです。内容は取材時のものです。

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