テノール歌手・オペラ歌手<後編>|プロフェッショナル夢名鑑

響き渡る声が強く美しく、多くの人を魅了する歌手に話を聞きました。

歌手としては、共演者と深いところで通じ合える、指導者としては、導いた若者が輝く瞬間を見る、感動や尊敬が交差する仕事です。

新国立劇場にて、こどもオペラ『スペース・トゥーランドット』のキャプテン・レオ役を演じた時の写真(中央赤い衣装が小原さん)。4歳の観客に死の悲しみをどうやって伝えるか考え、「お母さんに泣いてもらうことだ!」と。涙する親御さんに、驚愕する子どもたちの顔が忘れられないと話す。

どのような大学生活を過ごしましたか?
小原 私は博士号を取得するまで13年間も大学にいたんですよ。長いでしょう。不登校だった時代を取り戻しているわけじゃないんですよ。理想の声を出し、歌えるようになるには、決して13年という年月は長くはない。私はテノールで受験しましたが、だからといって最初から高い声がでるわけではない。発声を勉強して声を理解し、作り上げていくんです。
大学を出てすぐ歌手になる人は少ないと思います。大学院ではオペラを学び、さらに博士課程に進み論文を書いて博士号を取るまで在学していたら13年経っていました。もちろん今も学び続けています。入学した当初は、私はピアノも弾けないし、楽譜も読めない、合唱もついていけない。とても苦労しましたね。周りは我こそは、というずっと音楽をやってきた人ばかりですから。だからずっと必死で、たくさんの人に聞いて頼って授業についていった感じです。ピアノが弾けるソプラノの学生に音をとったりしてもらいましたね。

大学院ではオペラを学んだのですね。
小原 そうですね。芝居も好きで、劇団に入りたいと思っていた時期もあったので。好きな歌と芝居があるオペラはやりたいと思っていました。

大学時代から舞台には出ていたのですか。
小原 大学時代はガソリンスタンドでアルバイトをしたりもしましたが、徐々に声をかけてもらえるようになりました。合唱のエキストラからソロの仕事もいただけるようになり、コンサートに出ることもありました。
また、当時の東京芸術大学には「芸大オペラプロジェクト」という企画があり、これは全て学生の自主企画で舞台を作るんです。美術学部の学生も加わり、指揮、演出、セット・衣装の準備もすべて学生で行う。これはやりがいがあったし、今振り返っても良い経験、学生生活、大学だったと思います。大学の時に一緒に演じたメンバーは今もつながりがあり、一緒に舞台に出ることもありますし、まったく別の職種で活躍している人もいますね。

現在、自身が歌うやりがいと、指導をするやりがいはどこに感じていますか。
小原 私は音楽という芸術を追求したいという思いが根底にあります。でもそれは1人ではできることではない。必ずオーケストラや、最低でもピアニストが必要なんです。その中で、オーケストラと指揮者、歌手が演奏中にピタッと息が合う感覚、会場が息の音もしないほど静かになり、1つになる感覚。この瞬間は、音楽をやっていてよかったなあと思います。
指導する時は“ティーチング”というより“コーチング”を心がけているのですが、必ずしも音楽家にならなくても良いといっています。大切なことは自分を深く知って、自分の道を見つけることだと思っています。ですから教え子が自分の道を見つけ、自身を解放していく瞬間を見た時に、感動という言葉では足りないような、尊敬に似た感情が沸いてきますね。

音楽の道を目指す子どもたちにメッセージをお願いします。
小原 「自分はこんなもんじゃない」という思いを大切にして欲しいです。その漠然と感じている思いは必ず合っていますから。これまで出会ったそういう思いを抱えた学生たちで、“それは自分を買いかぶりすぎだよ”と感じたことは一度もありません。誰かが望む自分以外の“別人”になろうとしなくていい。もっともっと自分を追求して、人を幸せにできる“輝く人”になってください。

全ての質問に真剣に且つ、楽しくお話してくださる小原さん。2人のお子様がいて、「先日、小学校のお仕事インタビューで歌ったら娘にホントやめて!といわれてね(笑)」と笑顔で語る。

二期会 ワーグナー作曲オペラ『ローエングリン』でローエングリンを演じた時のもの。長大なオペラの難役だが、演出の深作健太氏、指揮の準・メルクル氏、東京都交響楽団と忘れ得ない瞬間を過ごしたと話す。

お名前
小原 啓楼(おはら けいろう)さん
出身
郡山市
最終学歴
東京芸術大学卒業、同大学院修士号及び博士号取得
お休みの日の過ごし方
子どもとの時間を大切にする、掃除

前編はこちら

※この記事はaruku2024年5月号に掲載したものです。内容は取材時のものです。

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